人のセックスを笑うな』読んだよー。
映画とまるで違うよー。

人のセックスを笑うな (河出文庫)

人のセックスを笑うな (河出文庫)

えんちゃんもユリちゃんも別人だよー。ユリちゃんが永作じゃない!
永作のユリちゃんだから二十歳年上でもアリだと思えたのだなあ、映画版はドリームなんだなあと思った。


面倒臭がりなので自分の身体やら顔やらの手入れをしないが、それで老いた部分を恥じるところのある、そんな中年女性のユリちゃんに共感する中年は多かろう。
しかし絵の先生で、学校で講師してるユリちゃんの、「自分の絵を見失ってしまったのよ」みたいなこと言って旅立ったりする部分はどうなんだろう。
小説はみるめくん視点の一人称で語られてるので、あまりユリちゃんが苦悩しているようにも見えない。中年の美術講師のその挫折部分をもっと詳しく私にギブ! と感じた私にはそこ食いたりねぇ。
せっかくなんだから大人の挫折が読みてぇな。


主人公のみるめくんより二十歳年上の、でも性格的に可愛いところのあるユリちゃんが、飢えたハイエナのように、自分の教え子のみるめくんの周囲をくるくる徘徊して「私あなたのこと好きなんだよね。知ってた?」みたいなことを言いつつ、でも決して自分からは手を出さず、みるめくんが気配を察してスタートしてしまうっぽい記述に「ユリちゃん、このヘタレめ!」と思った。
小説のユリちゃんは、ぬらぬらしてる感じがした。再読したらまた違うのかもしれないけど、芸術と自分との関わりに苦悩して旅立つところも含めて、あまり爽やかではなくむしろ暑苦しく思えた。苦悩してもいいんだけど、なんで二十歳も年下の教え子にそんなこと言うのかなあなど、私には不可解。「好きなんだよね」と告白しつつ決して自分から手を出さず、みるめくんの様子見をして、周囲をうろうろしている感じも、なんだか、ぬらーんて感じがしたの。
そこんとこは脳内で永作ビジュアルで補完しつつ読む。永作博美さんだからこその透明感と愛らしさの補完を……。


えんちゃんも小説だとあんまり出てこないし。映画の、蒼井ちゃんビジュアルのえんちゃんは可愛らしすぎて困るぐらいだったけど。あのニット帽のときの少年風味と、ニット帽を脱ぐと途端にすごく女の子になっちゃうギャップに私はトキメキましたよ。


とても淡々とした小説で、あの淡々とした映画よりさらに淡々としてて、ちょっと驚いた。でも文学って淡々としてるもんだよね。
そういえば映画を見たとき、屋上が印象的に出てくるので「誰かがここから墜落することで話が転がるのかな。事件がきっと!」みたいに、大きなネタ展開を想定して見てたら、最後まで誰も死ぬことなく大怪我することもなくて、自分が最近いかに娯楽的なものに慣れているのかを感じいったのでした。
スピード展開とあっと驚くのを期待して映画見てるよ私。


でも……ああそんなこともあるよな。
と感じさせる小説ではありました。小説のユリちゃんなら、探せばいそうな感じ。


この何年か、雑誌などで「大人の恋愛」みたいな特集があったりするのをたまに見かける。生きてくことだけに必死になってた時代とは違い(私の脳内推定はここは大正生まれの人たちの戦時を考えている)、平和になったし、恋愛でもしないと、なにかしら心が満ちてない気がするのかな。
大人の恋愛というのは互いに自立したところではじまるものなので(私感)、団塊以降、ある程度自立した(あるいは自立したという錯覚だけかもしれないが)女性が増えることで、 女性たちが「大人の恋愛」というキーワードに目を向けているのか。
だが団塊世代の男性は逆に自立してなさげにも見える(自立とは、金銭的なことや仕事と共に、生活すべてを自分でまかなえることなので)。
でも自立って三十路こえないと実感できないような気がする。そこは、人によるか。小学生でも家庭環境により精神的に自立せざるを得ない子だっているしな。


だからなにってこともなく、ただの印象。