片付けはまだ途中で半端なところで旅立ってしまったので続きをしなくてはと思いながらも仕事が先だよな。でも掃除。ホウキとチリトリとモツプかけ。
移動日とその翌日はヘトヘトなのはこの一年二年の体調でそれはもう年のせいとしか言いようがなく、太ったわけでもないのに、疲労で垂れた顔肉のせいで顎とか頬とか衰えがそのまま「でっぷり」な印象につながる。私の老いは貫録にも余裕にも結びつかず貧相でだらしないのではと鏡のなかを見てげんなりする。無防備に鏡に映る自身こそが真実だ。化粧もせず取り繕うことのない現在の容色。
おばさんは外のことなど見ずに子どもと夫とを大切にしてくださいと投げられた過去の言葉を思いだし、これ以上なにをどう大切にしたらいいのかとうっかり苦笑する。自分自身しか負うもののない人の軽さを羨みもするが、かえのないたくさんの経験が私のなかにはあるのだし、ある種の若さのまぶしさに目をすがめることはあれど、自負による「持たざる者への侮蔑」もまた私のなかにはあるのだ。
けれどその言葉はしっかりと自身の心の奥底にとどまり、ふとしたときに「はたしてこれでいいのだろうか」と自問する。怒りよりも悲しみの量が多いのは、年を取ることの楽しみをこの数年で奪われてしまったからだ。それまで私のなかに培ってきていた自信と喜びを、ことあるごとにぐらぐらと揺らし、根こそぎ掘り起こして枯らしたその真意は私はいまだわからないままだ。あれはなんだったのか。あの意図はなんだったのか。肯定してくれるべき他者に重ね重ねて否定されつづければ、いくら私でも萎縮はする。それきり新しい根は生えない。それが悲しい。
否定するな委縮するから褒めてくれという相手は、では私を褒めてくれているのだろうか。とはいえ褒められるようなこともしていないのだから、私が褒められることなどきっと生涯ないままなのだ。そして褒められずとも、実際にきちんとやっていることに関しては私自身は納得しているし知っているので、そこは褒められようと、けなされようと、どうでもよい。たとえば仕事については全否定されようと、やり方をけなされようと「若者がなにかを言っているな」としか思えない。実際に責任を負ってここまでやってきて、収入を得続けている自信がある。私の方法は私にとって正しい。「それでもそれは違うよ。君はわかってない」と再三言われれば苦笑は生まれるが、流すことそのものはたやすい。が、それでいてその同じ口で同じ耳で、自分自身に対しての否定はすべて拒絶だというのならまた話は違う。自分に甘く他者に厳しいというその姿勢は尊敬できず、けれど我が身を振り返れば自分にもそういう部分もあるのではと、そもそも人はみな「他人に厳しく自分に甘い」のだからと思えば、たいしたことでもないのかと感じもする。若者であろうが年よりであろうが同じに。
若ければいいというものでもなく、同時に、ただ年を重ねていくだけでも駄目なのだということは悟っている。ではなにをどう重ね、どちらに向かえばいいのかと思い悩んだところで、足を止めると沈むがゆえに、常時あがいて、そうしているうちに思考は止まる。わからないなりに進むしかない。
というよりもう考えるのに飽きた。


若いということの素晴らしい点は、考えたり悩んだりを長く続けられることだ。もう私には無理。怒りも悩みも長く保つことが困難な年齢です。
それから「呆れる」という感情は年取ってから近しくなった感情だ。あきれちゃって言葉も出なくて脱力して「もう、いいよ。わかった」と、わかってないけど納得することが多くなった。その結果、不必要な苦労をしている気がするが。同じ年なのにいまだ私を呆れさせることができる人につしいては、もう本当に無理だけど、無理といったらそこでいろいろと支障がでるという結論にまた昨日Mさんと話していてひとりで納得してしまったので。
二十歳のひとを「呆れさせ」ちゃならんだろう。


尻に穴のあいたジーンズを、もう尻を見せればいいのだと薔薇柄のレギンスの上に重ね履き。尻から薔薇が見えるよ。黒に白い薔薇だよ。


追記・
特に褒められてもなあという部分ではよく褒められる。
きっと私の「褒められたい」ポイントは他人とは違うのだろう。

若いとか年よりとか途中からあまり関係のないことになっているが、まあいいやそのままで。

さ、ワックスがけしよう。