キヨシローの夢を見た。彼は歌ってた。DVDなのかテレビのオンエアなのか。歌う彼を見て、その声を聞いている私は「彼がもうこの世にはいない」ことを知っていた。夢のなかで知っていて、そして起きても知っていて、そのうえで「ああ、だけどキヨシローの歌は『私のなかで』響きつづけてる」と思った。
リスペクト。


書評でネタバレしたからって、それで本文を読んでつまらないと思うなら、それはきっとその小説そのものがつまらないのではなかろうか。事前にネタバレしていたって、おもしろいものはおもしろい。ネタバレしてなくても、本文がつまんなかったらそれまでだ。書評家たちが肩肘はってあれこれ主張するほどには、私は書評を信じていない。ひとによっては信じてるんだろうけどね。書評の美味い下手やら、是非を問うのは書評家とその付近にいる人たちだけって気がするけど、そうでもないのか。どうでもいいのよ。
音楽評論家もそうですが。
その近辺だけで楽しくやってればいいんじゃねー??


どちらにしろリスペクトなしで「評する」ものにのみ私はなんとなくの嫌悪を感じる。
愛があればけなしててもネタバレててもなんでもいいや。でも愛のないただの憎しみとか「大嫌い」って感情の吐露でしかないものは、たとえその対象物が私にとっても好みじゃないものだとしても見たくない。そういうのは近しい人と酒飲んで「ねーねーあれって最低だったよー。クソみたいな音楽」とか「クソみたいな小説」とか言いあうにとどめたい。


ただの「良い人のふりをしたがる」人っぽいですか。だって原則として私は良い人だもーん。


んでメディァワークス文庫で「ケルベロス」読みました。
かこええのう。古橋さんの小説はやっぱり好きだ。早く続き出ればいいのう。